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島時間 Island Time

文/高木一行

 帰神スライドショー 撮影:高木美佳&一行

 帰神ミュージック 『アイランド・タイム』 

 作曲・編曲・アレンジ・演奏・ヴォイス 高木美佳

 

 帰神スライドショー&帰神ミュージックのご観照方法

 本作で帰神スライドショーとクロスオーバーされている帰神ミュージックは、すべて高木美佳の手になるオリジナル楽曲だが、耳の肥えた方々は少しく聴いただけでそのクオリティの高さに驚き、この作品におけるBG(バックグラウンド)はもしかして映像の方ではないのか、とすら感じていらっしゃるかもしれない。

 

 プラスと書かずクロスオーバーという言葉を私は意識的に用いているのだが、私たちの作品において映像(視覚)と音楽(聴覚)は常に対等であり、互いが互いを高め合う関係となっている。プラス(+)とは添え物としてつけ加えること。クロスオーバー(×)は相互に掛け合わせて新たなものを産み出すこと。

 さらに申し添えるなら、私が映像、妻が音楽という風にそれぞれの担当が截然と決まっているわけでもなく、私には音楽を創ることはできないが、美佳は自分のカメラで独自の世界観を写し撮り、表現するべく常に試みている。私にはまた、私にしかできない独自の表現の道がある。無念無想の裡より自ずから湧き出ずる言葉を綴ってゆくことも、私にとっては芸術的な営みの一環にほかならない。

 

 芸術とは、生まれつき特別な才能を備えた者や、幼少時から専門の訓練を受けてきた者、あるいは有閑階級のみに許された贅沢な特権などでは、ない。断じて。

 芸術とは、誰もが生まれながらに備えている自然な感性を柔らかに、繊細に、解き放ってゆくことだ。

 芸術とは、生(生きるということ)を輝かせる道だ。

 一つの生き方、というよりはむしろ、「在り方」だ。

 所有物の量を外側へ向かって増やすのではなく、逆に1つのものごとの内面へ向かって細やかに知覚と意識を割ってゆくことで「質」を高める。

 それがあらゆる芸術の本質であり、その「コツ」を会得した者は真の豊かさと充足とは何なのかを知るに至るのだ。

 

 私たち夫婦の芸術家としての歩みは、そのままダイレクトに生命[いのち]の本質を探究する内面的な旅路とも重なっており、その軌跡についてはインターネット上でことごとく一般公開してきたから、ご興味のある方はそちらを適宜ご参照いただけばよいが、ちょっとのぞいてみた方は、そこから先へさらに複層的なリンクが複雑に張り巡らされていて、しかもそのことごとくが自らのウェブサイト内の記事あるいは作品へとつながっており、それら1つ1つが未知の世界観に裏打ちされたまったく独自のものであることを発見して・・・・これまで大多数の人たちがそうであったように、ひたすら途方に暮れていらっしゃるかもしれない。歓喜の予感に密やかに打ち震えながら。

 

 電脳密林あるいは電脳珊瑚礁のごときその彩り豊かな新世界がお気に召した方は、人類との分かち合いを旨としてことごとく無償で公開しているものなのだから、気軽にショート・トリップやロングステイなどを繰り返して楽しみつつ、何か各自の人生にとって有意義なものをつかみ取っていただければ幸甚だ。

 私たちは、単なる伝聞や机上の空論を厳格に排し、「自らの実体験」に基づいて語り、創作し、活動することをもっぱらとしてきた。

 そして、様々な浮き沈みがある人生のいかなる局面においても・・・文字通り健やかなる時も病める時も、富み栄える時も貧しき時も、正真正銘、掛け値なしに「効く」ものだけを選りすぐって、人々の前に静かに差し出してきた。

  

 私たちの名を世に売り込もうとか、作品を売って一儲けしようとか、作品の価値を認めてほしいとか、そういったことに我々は一切関心がない。認められようが認められまいが、好かれようが嫌われようが、そんなことに一々構って一喜一憂している暇などない。

 私たちはただ、ファナティック(偏執狂的)な宗教的表現ではなく、繊細で美しい芸術的な表現を通じ、地球生命そのものからのメッセージとでもいうべき「あるもの」を、人類へ伝えようとしているだけだ。

 宗教の頑迷や偏狭などと我々は完全に無縁だから、片っ端から人々の胸ぐらを引っつかみ、唾を飛ばしながら、さあ悔い改めよ、入信せよ、改宗せよ、などとわけのわからんことをわめき散らすような無粋は一切せぬ。

 説教も、上から押し付けられるのも、まっぴらごめんだから、その自分自身が嫌なことを他者に対し強要しようなどとは金輪際思わない。

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 欧米の反捕鯨団体が頭ごなしに有無を言わせず、「クジラを殺すな、この野蛮人共が!」と自らの意見や価値観を強引に押し付けてきたなら、「それでは是非クジラ肉を食わねば」と反発するような、私はもともと人間なのだが、龍宮巡礼の一環として一昨年(2013年)、小笠原と伊豆七島の利島で野生のイルカたちと海中でディープに交流し、私たち人類よりも遥かに先んじて地球に現われた「いにしえの者たち」より<生命の法>について学んでしまったら・・・、その後はスーパーマーケットの魚屋で時折クジラ(イルカ)肉が並んでいるのを見かけるたびに、血の滴る人肉が切り分けられてパックされ売られているように感じるようになったのだから、この変化には我ながら一驚を禁じ得ない。注1)

 

 思うに自らを反捕鯨運動家と称する人々の大半は、イルカともクジラとも、海の中で実際に一緒に泳ぎ、時間と空間を共有した体験が「ない」のではあるまいか? ちなみに、イルカは小さいクジラでクジラは大きいイルカ、両者の動物学的区別はただそれのみだ。

 強大な政治力を背景として自らの意見をエゴイスティックにゴリ押しした結果、仮に反捕鯨、反イルカ漁の理念が現実化したとしても、人為による支配の下[もと]に自然を置こうとする傲[おご]り高ぶりがもたらす癒し難き魂の傷を、人類はまた新たな原罪として自らの裡に抱え込むだけなのかもしれない。

 

 もっとフェミニン(女性的)で、エステティック(審美的)で、柔らかくしなやかな、まったく別の<道>がある。

 私たちが今まさに歩みつつあるのが、その<道>だ。

 私たちが、全身全霊を捧げて・しかし秘めやかに、人々に指し示さんと努めているのが、その<道>だ。

 この<道>は老子が2500年前に語ったように、「常の道にあらず」(普通、我々が道という言葉を聞いて思い浮かべるようなものとはまったく異なっている)。

 それはどちらかといえば、インターネットの複雑精緻なウェブ(クモの巣)的ネットワーキングがそれ自身の内部に多種多様な情報を孕[はら]み、相互作用し合いながら外部での様々な変化を引き起こしてゆく状態に、ちょっと似ているところがあるかもしれない。

 私たちが、インターネットを芸術的な表現手法として採用しているのは、老子のいわゆる<道[タオ]>と相通じ合う「何か」を、人類が新たに獲得したこの情報伝達の手段に対し感じるからだ。私たちは、インターネットの新しい活用法や在り方についても、まず自ら率先して探究し、そして具体的に提示しつつある。

 

「野生のイルカやクジラと一緒に泳ぐというのは、人生を変える可能性を秘めた、楽しい、美しい、この上なく素晴らしい体験なんですよ。ひとつご一緒にいかがです?」と人々を(控えめに)誘う。

 その体験は、実際に悦ばしき変化を、1人1人の内面にもたらすだろう。

 そういうことが体験できる「場」を世界各地に創り出し、より多くの人々に紹介してゆく、そういうことにこそ、精根を傾けるべきではあるまいか?

 そうなれば、その他の外面的なあれやこれやはごく自然に起こり始める。

 

 イルカやクジラだけが尊いんじゃない。イルカやクジラだけを大切にしてもまったく無意味だ。

 第1章でご紹介したように、慶良間諸島の阿嘉島ではウミガメたちとのんびり一緒に泳ぐことができるが、私たちは国内外のあちこちの海を訪ねてきたけれども、そんなことが誰でも気軽に楽しめるような場所を寡聞[かぶん]にして他に知らない。

 そして繰り返すが、イルカとかクジラとかウミガメとか、人はとかく物珍しさとか目立つものに注意を奪われがちとなるけれども、実のところ海の中のありとあらゆる存在が・・・大きいのも小さいのも、奇妙な形をしたのも、ごちゃごちゃ複雑に絡まり合ってわけがわからないのも、何もかもことごとく・・・・、大いなる<奇跡>なのだ。

 海の中だけじゃない。

 開かれた感性には、天地宇宙のすべてが奇跡以外の何ものでもないことが、ダイレクトに・・・生理的・神経的に、感じられる。

 

 ちなみに私たちが言うカミとは、そのような奇跡を産み出した超越者のことでは「ない」。

 旧約聖書的な神による世界創造を現代風に言い換えただけのインテリジェント・デザイン説に我々は与[くみ]するものではないが、ただデザインという言葉遣いのセンスには感心させられる。私たち日本人にとっての本来のカミは、デザイナーではなく、デザインそのもののエッセンスだけれども。

 つまり、デザインとデザイナーとは切り離されてない。

 ちょっと話題を変えようか。

 20年くらい前になるだろうか、沖縄の石垣島で生まれ育ったというチャーミングな一女性が、職場の研修で「内地」(沖縄の人たちは九州以北をそう呼ぶ)の熱海へ行った時の体験を活き活きと話してくれたことがある。

 彼女が言うには、生まれて初めて「黒い海」を見て心底びっくりした、と。海というのはエメラルドグリーンに明るく透き通っているものだと思い込んでいたため、それとはまったく違う暗い陰鬱な海の姿は、彼女にとり衝撃的ですらあったらしい。

 私も18歳で初めて独り沖縄を旅した時、方向性は正反対だが彼女とまったく同質の衝撃を覚えた体験があったから、深く共感することができた。

 それ以前に、雑誌やテレビなどで南島[みなみじま]の海を何度も目にしてきて、内地とはまったく違うことは知識(頭)ではわかっていたが、実際に自分自身の目で観るのはまったく別種別様の体験なのだ。

 

 百聞は一見に如かず。そして、千見、万見も「一触」にはついに及ばず。

 美しい海の中へ実際に入っていって、全身的に「感じる」というのは・・・・海を生物学的な故郷とする人間にとって、途方もなく価値ある体験であると断言することに、私はいささかのためらいも覚えない。

 泳げない人でもシュノーケリングは可能なのでどうかご安心あれ。

 かくいう私自身、まったく泳げなかったにも関わらず、すっかり気に入って足繁く通い始めた沖縄・西表島[いりおもてじま]の海があまりにも美しく、蠱惑的だったことから、独学でシュノーケリングを覚えた。

 その後、あちこちいろんな海を夢中になって「潜り歩いて」いるうち、いつしか(シュノーケル・セットなしでは)自分が泳げないという事実すらスッカリ忘れ去っていたほどだが、一昨年の小笠原巡礼でまともに泳ぐこともできないようではイルカたちからまるで相手にされないとわかり一念発起。小笠原巡礼中のある一日、荒々しい波が激しく押し寄せてくる父島の浜で海の神々へ祈りを捧げたところ、ほとんど・・・一瞬・・・で、平泳ぎでもクロールでもバタフライでも、自由自在に泳ぐことが可能となった。

 すでに泳げる人にとっては些細なことと思えるかもしれないが、52年間まったく泳げなかった人間が突然スイスイ自由に泳げるようになるというのは、特に自分がどの程度「泳げない」のか、徹底して熟知していた私自身にとっては<奇跡>以外の何ものでもない。

 そうした<奇跡>が日常茶飯事のごとく連続・連鎖して起こり続ける生き方を、私たちは今現在、リアルに歩み続けている真っ最中だ。

 

 ところで、私たちがこれまで南方の海ばかり採り上げて作品化してきたのは、単に個人的な趣味嗜好の反映に過ぎず、「そこだけが特にすぐれて素晴らしい、美しい」などと主張するつもりは毛頭ないので、どうか誤解のないよう願いたい。

 北の海にはまた、そこにしかない独特の「何か」があるに違いない・・・のではあるが、何せ妻の美佳は海の冷たさがとりわけ苦手なものでね(呵々大笑)。

 このたびの慶良間巡礼中でさえ、美佳は海に入るとたちまち激しく震え、唇が紫色になって、傍で観ていても痛々しく、「次回の巡礼地は海のない場所へ行く」と密かに決意したほどだ。

 すっぽんぽんでいい気になって泳ぎ回っている、・・・わけでは、まったく「ない」!

 超繊細な音楽家の感性を持つ美佳は、べた凪に近い海の波でさえ、惑乱と眩暈[めまい]のまっただ中へと直ちに放り込まれるのであり、静かな海にただ浮かんでいるだけで激しく酔い、海の中で吐いても吐いても治まらない猛悪な気分の悪さと、今回も延々対峙し続けた。

 海の巡礼に行くと、美佳は毎回そうなる。苦しみが極限を越えると、後は楽になり始め、それ以降はどんどん調子が上がっていって海を楽しめるようにもなるのだが、そうなるまでが大変、というよりは文字通りの試練だ。

 

 毎回毎回、猛烈な船酔いのさ中にある者にしか決してわからぬ極度の苦悶が必ず待っているとわかっていながら、それでも敢えて海の巡礼へ美佳が出かけてゆくのは、芸術家として、<生命[いのち]>のメッセンジャーとして、自らの使命を鋭く自覚するがゆえであり、と同時に、海というものがそれほどまでに魅力的で素晴らしいからでもあろう。

 勇気がなければ決してできることではないし、改めて思い起こせば、苦しみのさ中で美佳が弱音を吐き、「もう海は嫌」と言うのをこれまで一度も聴いたことがない。

 

 このように、決して大げさや誇張でない文字通りの「命がけ」を、私たちはこれまでずっと貫いてきた。

 とはいえ、一応念のため申し添えておくならば、美佳は聴覚と一体となっている三半規管の働きがおそらく普通人よりもずっと鋭敏であるために上述のような常ならぬ酔いを海中や船上で毎回経験しなければならないのであって、普通の人には無縁の現象であり、本作品を通じてシュノーケリングというものに興味を持ち始めた方々は、ご安心いただきたい。

 常識をもって正しくアプローチする限り、シュノーケリングは非常に安全に誰もが楽しめるものであり、とりわけ南海の美しい珊瑚礁でのシュノーケリングは、悦ばしい意味において「人生を変える」ような体験となり得る。

 そして、小さな子供が狂喜乱舞して大はしゃぎすると同時に、私のように30数年間結構熱心に続けてきても、いまだなお極め尽くせぬ繊細微妙さや奥妙さをも兼ね備えている。

 まだ観てない光景、出会ってない生き物がいる、という意味だけじゃない。毎回毎回、皮膚感覚と体内の感覚(体性感覚)とで「感じ・受ける」ものが違うのだ。

 

 重装備に身を包むスキューバ・ダイビングに背を向け、私たちが敢えてシュノーケリングにこだわっているのは、「感じる」ことを重視しているからだ。

 別にスキューバ・ダイビングを否定するわけじゃないし、水中カメラを抱えて深いところに何度も何度も繰り返し潜ってゆきながらサンゴの奥に隠れてなかなか姿を現わそうとしないシャイな小魚などをじっと忍耐強く待ち続けている時には 、スキューバ・ダイビングならこんなに苦労はしないだろうにという思いが瞬間・・・、脳裏をよぎることも、ないではない(大笑)。

 でもやっぱり、シュノーケリングにはそれ独自の魅力がある。

 それから、シュノーケルはドイツ語でスノーケルは英語なので、シュノーケリングという言葉は独英折衷ともいうべき奇妙なものではあるのだが、シュノーケルがドイツ発祥であることと、シュノーケリングという語感も気に入っているので、私たちは「シュノーケリング」で統一している。

 

 さて、本章にてご紹介する帰神スライドショーに収めた写真作品のうち、夜も更けてあたりが静まり返ってから阿嘉島の浜辺で美佳が帰神録音した潮騒とクロスオーバーされた導入部の波打ち際のシーンが連続するところが私、そこから帰神ミュージック『アイランド・タイム』と共に展開してゆく月桃の実、猫、カタツムリ、庭や路傍で活き活きと息づく草木や花、夕景、そして美しく澄み渡る海へと至るパートを美佳、それ以降は再び私が帰神撮影した。本文中に添えた単体の帰神フォトは、いずれも私の作品だ。

 それぞれのカメラを手に同じ場所を巡りながら、私たちが観るもの、感じるもの、注意を惹きつけられるものが、随分異なっていることがおわかりだろう。

 と同時に、2人の作品中に同じ猫が繰り返し登場したりして、「好み」が同じなんだなあとお互いに改めて感じ入ったりもする。

 

 このたびの巡礼より帰還した後に聴いたのだが、慶良間の猫たちはそこで独自の適応を遂げた「在来種」ではないか、との説があるらしい。

 阿嘉島滞在中に出合った猫たちは、成猫なのか仔猫なのかわからないほど小柄でほっそりしており、ちょっと面長な顔が特徴的だったが、そういう遺伝形質がすでに固定されているのであれば、飼い猫の中でも最小の部類とされるシンガプーラと同等か、もしくはさらに小型の新品種を作出することができるかもしれない。

 私たちは猫のブリーダーになるつもりなどないが、慶良間の猫を内地へ連れていって大切に飼ったらどんな風に育つのか、ちょっと興味はある。

 

 

注1)『ボニン・ブルー 小笠原巡礼:2013』、『ドルフィン・スイムD 利島巡礼:2013』

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