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海中奉納舞 Sacred Dance in The Sea

文/高木一行

[ ]内はルビ。
 
 
 沖縄の中心地として、おびただしい人と物の流れが交錯し、混雑と喧騒のうちにせめぎ合う那覇から高速船で50分、慶良間諸島の阿嘉島[あかじま]に着く。
 旅人がそこで目にするのは、騒々しくて精気に乏しい那覇市街地から、ここが至近距離の海を隔てたのみの場所とはちょっと信じ難いほどの、まったく別天地のごとき光景だ。
 港のすぐそば、阿嘉島と慶留間島[げるまじま]の間に架け渡された大きな橋の中ほどに立つだけで、もうすでにご覧の通り。晴れた日の午前中、海はこのようにひときわ一層美しく澄明[ちょうめい]に、輝き渡る(写真をクリックすると拡大)。

 妻の美佳と私は、これまで内外の様々な美しい海を訪[おとな]い、海中で五感を全面的に開放して意識を研ぎ澄ませ、誤解を恐れず敢えて言うなら、「海の神々の声無き<ことば>を感受する」べく努めてきた。

「海の巡礼」とか「龍宮巡礼」という言葉を、私たちがしばしば用いるゆえんだ。

 私たちについて何もご存知ない方々のため、誤解なきようあらかじめ申し上げておくが、「神々」という複数形を用いているところですでにユダヤ・キリスト・イスラム教的な一神教の神[ゴッド]を私が指しているわけではないらしいとご推察いただけていると思うが、我々が言うところの神とは、天地万物のあらゆるものの裡[うち]に聖性を自然に感じ取ってきた日本人にとっての本来の<カミ>にほかならず、敢えて英訳するならspiritが最も一般的かもしれない。

 

 東京医科歯科大学の角田忠信[つのだただのぶ]教授は、日本人が自然界の音を言語と同じく左脳で処理し、聴き分けていることを発見した。スペイン・バスク地方の住民などごく少数の例外を除き、地球上の他民族には観られない希有[けう]な特色であるという。

 秋の虫の鳴き声を、私たち日本人は「声」と呼び、虫の種類によって「リーンリーン」とか「チンチロリン」、「ガチャガチャ」、「スイッチョン」などと表現するが、外国人に同じ音を聴かせて文字化するよう求めても皆途方に暮れたような顔をして首をかしげるから面白い。単なる雑音[ノイズ]にしか聴こえないそうだ。

 角田教授の調査によれば、外国人の子供であっても日本語に馴染みつつ育った者は、日本語のネイティヴ・スピーカーと同様に自然界の音を「声(言葉)」として聴くようになるというから興味深いではないか。

 鍵は、「日本語」そのものにあるらしい。

 古来、日本人は、自らが暮らす世界を「言霊の幸[さきわ]う国」と呼びならわしてきた。草々や木の葉や小石など、天地の万物が皆、言葉を発するところ、という意味だ。

 

 ・・・・・・・

 

 さて、前置きがスッカリ長くなってしまったが、龍宮巡礼、である。

 まずは龍宮の神々が祝い鎮[しず]まりまします慶良間の海中にて、妻が裸身となって奉納の舞をうやうやしく捧げ、その様を私が帰神撮影[きしんさつえい]した。

「帰神」という言葉は元来、古神道における「神がかり」のわざを指すが、私たちが提唱する帰神法は21世紀の現代社会に生きる者にふさわしいまったく新たな様式で芸術的にバージョンアップしたものであり、現代的な知性と何ら相矛盾しない奥深さを秘めた、いわば現代における<祈り>の、ひとつの形といえる。

『古事記』や『日本書紀』の創世神話にいわく。

 黄泉[よみ]の国より命からがら逃げ戻ったイザナギの尊(みこと:尊称)は、魂を浄めるため、身につけていたものと共に過去への執着をことごとく投げ打ち、裸身となって海に抱かれ、寄せては返す複雑精緻[せいち]な波の動きを心身の奥深くまで受け容[い]れながら、<禊[みそぎ]>の浄化儀礼を執り行なった、と。

『ケラマ・グレイス』と銘打った本作品の序章に収めた「帰神スライドショー&帰神ミュージック」を、心静かに観照(鑑賞)することがそもそもできず、「不道徳」とか「不謹慎」とか「青少年に悪い影響が及ぶ」といった古めかしい封建的な言葉で心の中がざわつき浮き立つような方々に対しては、「申し訳ありませんが、これは偏狭な子供じみた、あるいは頑迷な年寄りめいた、マインドの持ち主向けの作品ではありません」、とお断りするしかない。

 

 子供向けじゃない、とは決して思わない。

 裸身は人にとり最も「自然」な姿であり、ああしようこうしようという計らいや作為の一切を溶かし去った無心無我[エゴレス]の境地の裡より自ずから顕[あら]われ生ずる美しい舞姿[まいすがた]に、<聖なる力>が投影される。それこそが、<帰神法>の本質だ。

 私たちの創作テーマは<水>と<波紋>であり、「観る目」をお持ちの方であれば水と波と光の交合の裡に多頭の龍神の乱舞を直感されるかもしれない。

 

 あなたは、この『ケラマ・グレイス』に<聖>や<美>を感じながら驚き・楽しみ・歓ぶか、それとも<俗>の極みであり不愉快千万なりと面[おもて]を背[そむ]け拒絶するか、果たしてどちらだろう?

 実のところ、我々にとってはどちらでも一向に構わない。

 M.エリアーデが述べたように、聖はその極みの裡[うち]に俗の種子をはらみ、その逆もまた真であって、聖と俗とは弁証法的な統合止揚[とうごうしよう]の螺旋[らせん]サイクルを延々循環してゆく。

 肯定と否定は、1つのコインの裏表だ。裏の裏は・・・表、だろう?

 光と闇、存在と消滅、有と無、善と悪。これらの二元対立的ペアもすべて同様に、互いなくしては成り立ち得ないのであって、その関係性は常に相対的なものだ。ある時代、ある場所で「善」とされ人々から称揚[しょうよう]されたことが、時と所が違えば一転「悪」と侮蔑[ぶべつ]されるなどは、古今東西に無数の実例がある。

 にもかかわらずどちらか一方のみを選んで他方を頑なに否定・排斥するというのは、失礼ながら実に「子供じみた」「大人げない」態度と言わざるを得ない。

 

 これは、まごうことなき<神事[しんじ]>なのだ。

 私たちは、海における「言霊の幸[さきわ]い」を通じて受け取った/受け取りつつある、いわば海の神々からのメッセージとでも呼ぶべき「あるもの」を、芸術的な表現を通じて地球人類へ伝える仲介者の役割を、自ら進んで果たそうとしている。

 何か、人類がかつて経験したことのない未曾有[みぞう]の事態が、まもなく地球規模で起ころうとしているのかもしれない。

 くだらん終末予言めいたたわごとを弄[もてあそ]んで皆さんの貴重な時間とエネルギーを浪費させるつもりなどさらさらないが、気候や環境など地球の様々な位相に「変動」が起こりつつあることは、もはや誰の目にも明らかだろう。

 通常の10倍以上の速度で、日々、生物種が失われている。地球はかつて5度の生物大量絶滅を経験してきているが、現在、6度目の大量絶滅期に入ったと見做[みな]す科学者たちの数は急増しつつある。

 このたびの大量絶滅の主要な原因は、言うまでもなく我々人類だ。

 

 人類は都市生活によって鈍磨[どんま]した感性を解き放って、自然の<声>に耳傾け、自然と共感し、自然と共生する術[すべ]を新たに学び直さねばならない。

 それこそが、私たちが<帰神[きしん]>という祈りの行為を通じて指し示そうとしているものだ。

 自然界の森羅万象に内在する<意思>と、私たち1人1人が直[じか]にコンタクトし、交流しながら、地球全土にネットワーキングを張り巡らせてゆけば、やがて天体規模の新たな意識が芽生え、急速に成長し始めるだろう。

 そのような地球全体を視野に収めるグローバルな意識によってしか、地球規模の問題をトータルに・調和的に解決することはできない。

 それだけは確かだ。

 そして、大いなる危機の時は、大いなる飛躍と成長の機会でもある。個人としてはもちろん、人類全体の在り方の変容について、私は語っている。

 従来の延長線上にはない量子的跳躍[クォンタム・リープ]を遂げることを、生物種としての人類は、生命を司る神々から、今や切実に、求められているのかもしれない。

 

 それでは帰神スライドショー&帰神ミュージック『海中奉納舞[ほうのうまい]』をどうぞ。

 真っ暗な部屋にて、PC画面の明るさを中間に設定し、スピーカーの音量を心地よい範囲内で最大にしながら観照することで、<御神気[ごしんき]>を最大・最高に受けられるようになっている。ヘッドフォンを使えば効果はさらにいや増す。

 帰神フォトグラフ:高木一行

 モデル(巫女):高木美佳

 帰神ミュージック『禊[みそぎ]』:作曲・編曲・アレンジ・演奏・ヴォイス 高木美佳

 

 →帰神スライドショー&帰神ミュージックの観照方法

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