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海神[わたつみ] Goddesses & Gods of The Sea

文/高木一行

 [ ]内はルビ。

 

 

 帰神撮影とか帰神録音といった言葉を私たちが使うのは、言うまでもないとは思うが、普通のやり方で撮影し、あるいは録音しているわけでは「ない」からだ。

 機械技術的なテクニックのことを指しているのではなく、例えば帰神撮影においては宮本武蔵が『五輪書』において「見の目を弱く、観の目を強く」と説いた「観の目」に相当する「目付け法」をもって撮影することを重視する。

 

 観の目とは、一言で言えば、視野を大きく、柔らかに、受動的に、開くことだ。より正確に言うと、(能動的に)「開く」のではなく、「開かれるがままに任せる」。

 視野の中にある何か(部分)を選択的に注視する通常の「見る」ことに対し、視野全体をトータルに「観る」。

 すると、目に映るあらゆるものが驚くほどの「空間性」を備えるようになる。空間性とは、立体感や透明感、色彩の鮮やかさはもちろん、普通は知覚できない事物の内面性をも含む。

 経験を積んだ名医や民間療法の大家などが、患者を一目観ただけでどこがどう悪いのか正確に言い当てる際に用いているのも、やはり「観の目」だ。

 実は、帰神フォト(静止画像やスライドショー)も「観の目」をもって観照するのが本来の在り方だ。鑑賞ではなく観照という、禅や瞑想の用語を使っているのはそういう理由による。私は一つ一つの言葉を極めて意識的に用いている。

 

 大抵の人は正しく訓練しさえすれば、それほど困難を覚えることなく観の目を修得できる。その具体的方法論やドリル(練修課題)などについて詳細にご説明する余裕は遺憾ながら本作においてはないが、何もかも包み隠さずことごとくオープンにインターネット上で公開しているので、名人・達人の「目の使い方」なるものを自分も身につけてみようか、とお考えの志[こころざし]高き方々は、せいぜいご活用いただきたい。注1)

 

 最も驚くべきは、同じカメラで同じ設定にしても、「見の目」で撮った写真と「観の目」で撮った写真とは、明らかに違うという事実だ。

<生命[いのち]>がこもって、内面から輝きが発せられるようになる。「御神気」とか「マナ(生命力)」、などと私たちをそれを呼んできた。

 カメラに「マナ」を込めることは、慣れてくれば一瞬で行なえるが、その際、あなたがカメラのどこでもいいから柔らかくそっと(カメラは精密機器だからね)触れ合って、ただリラックスしておりさえすれば、「マナを込める」というのが単なる観念論とかイメージ、あるいは妄想などではまったくなく、全心身の内面にハッキリ伝わってくるリアルな「体験(現象)」なのだとよくわかるだろう。

 私が述べているのは、いわゆる「気」とは異なるものであり、「気のせい」なんてレベルの話じゃないのだ。そしてマナとは、誰かから誰かへと伝わるエネルギーのようなものでも、ない。

 

 マナを込めるとは、それそのものの裡に本来ある<本質>を目覚めさせる、ということだ。

 そして覚醒したマナと触れ合う時、私たちの裡なる生命[いのち]の本質もまた、蝋燭から蝋燭へと火が燃え移るように、活き活きと振るえ、妙[たえ]なる超微細な輝きを発し始める。

 

 マナとの共感が起こる時、身も心も病的なまでに頑固に凝り固まってでもいないかぎり、大抵の人は体の中身がまるごと流体化して波打ちはじめ、傍[かたわら]から観ているとちょっと異様に感じられるくらい、ゆっくり・・・柔らかく・・・まるで時が流れる速度がその周辺だけ変わってしまったかのように、優雅に床に崩れ落ちてゆく。

 あるいは、静止したまま深い瞑想状態へと入ってゆく。

 周知の通り、私たちの体の70%は水で構成されている。骨でさえ、生きている時は30%程度の水を含んでいる。そして70%というのは全体の平均値なのだから、筋肉や内臓の水分含有率となると相当高いはずだ。

 私たちは<水>なのである。

 

 水として存在し、波紋として動き、水に生じる圧力として力を運用するというのは、だから、私たち人類にとって元来最も自然で、楽で、快適な存在のモード(生き方)であるはずなのに、その最も当たり前なことを、我々人類は陸上で永く暮らすうちにいつしか忘れ去ってしまい、自らの身体を弾力性のある固体であるかのごとき錯覚に、文明レベルで陥ってしまった。

 

 海の神々からのメッセージと私たちが象徴的に呼ぶものの内容は、簡潔[シンプル]にして明瞭[クリアー]だ。

 あなたがたは生来<水>なのだ、と。

 体も心も、<水>でできている。

 その<水>としての本性を思い出し、<水>に波紋を起こすことによって心身を運用してゆく術[すべ]を学びなさい、と。

 

 水になれとか波紋で動けなどと唐突に言われたって、「理屈は確かにその通りかもしれないけれど、一体どうやって?」と、誰しも思うわけだが、<帰神>とか<神々>という言葉を、「自分は無神論者である」と公言して憚[はばか]らぬ私が敢えて用いるゆえんは、その「一体どうやって?」が、ごく普通の・・・一般的な社会生活に支障がない程度の・・・体力と身体能力と知性とを備えた人なら、一つ一つステップを踏んでゆくことで自然と体得できるような<システム>が、今まさに、海への巡礼を通じて私たちに示されつつあるからだ。

 その内容はすでに膨大であり、現在進行形で留まるところを知らず深化(進化)成長を遂げつつあるため、これまた詳細を本作中で説く余裕はない。関心がある方々は、「龍宮拳」とか「龍宮道」というキーワードでネット検索してみれば、関連記事をあれこれ発見できると思う。

 より奥深くへと分け入り、知れば知るほどに、「一体これは何事か・・」と絶句し、驚き、あるいは呆れ返るのかもしれないが、ここは一つ海のように広々とした心で、寛大に受け止めてやってくだされ。

 

 帰神スライドショー&帰神ミュージックなんてまどろっこしい呼び方でなく、何かもっと直裁にそれそのものを言い表わす適切な呼び名がないものかとも思うが、人間も含め名前というものは、誰かが頭で考えて後から名づけるようなものではなく、それ自体が本来(この世に生まれる前から)備えているようなところがある。

 だから、「それ」自身が自らの真[まこと]の名をそっと耳打ちしてくれるまでは、「帰神スライドショー&帰神ミュージック」の仮称を用いようと思う。

 帰神スライドショーは、撮影者が観たもの、感じたものをダイレクトに表現するため、 in time(フェードイン)、show time(表示時間)、out time(フェードアウト)、change time(切替時間)などを細かく調整できるソフトウェアまで新たに開発したが、「これで充分」というレベルからはほど遠く、今後方式そのものを根本から改めてゆく必要性を痛感している。

 

 静止画でもなく動画でもない、その中間ゾーンに属する新しい独自の表現法になぜ私たちがこだわり抜いているのかといえば、帰神スライドショーによってしか表わし得ない、伝えることのできない、<世界>がそこに確かにあるからだ。

 ちょっと慣れてくれば、静止画がゆっくり移り変わってゆくだけなのに、その変化の中に物凄い情報量があふれ返っていることがおわかりになり始めるだろう。

 万物は流転[るてん]し、諸行は無常なり。変化こそが、この宇宙の唯一の本質だ。

 

 静止画像ではなく、静止画同士の重なり合いの変化の裡に立ち現われる「何ものか」を表現しようとする私たちの試みは、今や立派な日本文化の一つとなったアニメーションにも、anima(活気、精気)という言葉の本来の意味において、相通じ合うところがあるかもしれない。

 ところで皆さんはご存知だったろうか? 人類最古の芸術としてフランスなどの洞窟内に描かれた旧石器時代の絵が、たき火のもとで観ると動き出すアニメーションになっていたことが、 最新の考古学的研究により明らかとなりつつあることを。

 ◎◎魚とはどういう魚で・・・、といった話題は本作品における主要なテーマではないのだが、あくまでも余興として、一つ二つ解説しておくのも悪くはなかろう。

 例えば、moorish idol(ムーア人の偶像)なる奇妙な英名を持つツノダシは、写真のようなサンゴを背景にみかけることが多いのだが、あの異様なほど細長く伸びた白いヒレは一体何のためにあるのかという素朴な疑問の答えを、あなたは帰神スライドショーの中に見つけるかもしれない。

 ツノダシが登場したら、次の写真との移り変わりに注目していただきたい。ツノダシのヒレとサンゴの白い縁が混ざり合い、魚の位置を見失ってしまうだろう。静止画でも動画でもわからない、帰神スライドショーのみによって明らかとなる世界の、これはほんの一例だ。

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 左写真はモンガラカワハギ。

 カワハギの仲間を英語で総称してトリガー・フィッシュと言うのだが、程よい距離を保ちながら静かに観察していると、普段は折り畳まれている背びれの一部が、これらの魚の背中から時折、写真のようにひょいと立つ様を目撃するだろう。それを銃の引き金(trigger)にみたて、トリガー・フィッシュと英語で言うわけだ。

 この模様といい色使いといい、一体誰がデザインしたのかと真剣に考え込ましめるような見事な造形のモンガラカワハギが、悠然とすぐそばで泳いでいる。こいつはもしかして手づかみでつかまえられるんじゃないかと、あなたがそっと近寄っていったとする。

「そういうこと」は、海におけるマナーに違反する礼儀知らずな子供じみた振る舞いであるとあらかじめお断りした上で述べるが、すると大抵の場合、モンガラカワハギは写真のように手近な穴に入り込むだろう。そこで「しめしめしてやったり、頭隠して尻隠さずとはまさにこのことよ」、と尻尾をむんずと掴んで引っ張ってみれば、大の大人が思い切り力を込めても掌サイズの若魚でさえ絶対に引き出せないのだから、ただひたすら恐れ入るしかないではないか。

 狭い隙間に入り込み、例の引き金のように特殊化した頑丈な背びれを立ててつっかい棒にする。さらに、ある種の精妙な鎧のように進化した特殊な皮をあれらの「ひとびと」は総身にまとっているため、ごつごつごわごわしたサンゴで強くこすれようが一向に意に介さず、逆にそのヤスリ状の皮膚がひっかかって、引き出すなど到底不可能となるのである。

 

 そういえば、昔、書生っ子の頃、沖縄の西表島で、大型台風が間近に迫り、どの家々も窓に目張りをして皆屋内でひっそり息を潜めているような時、シュノーケル・セットをつけて大荒れに荒れる海に浮かび、大波が来るたびに何メートルも押し流され、また押し戻されるのが楽しくて仕方なく、いつも独りでそうやって遊んでいたのだが、ある時、ふと横を観ると、モンガラカワハギの仲間のタスキモンガラの小さいのが、浅瀬の岩場の穴で「頭隠して尻隠さず」をやっている。

 これくらい小さい相手ならもしかすると・・・、と、当時は何せ右も左もわからぬ未熟な小僧っ子であったゆえ、ちょっとした出来心でつい手を伸ばして尻尾をしっかり掴んだ。

 その瞬間、ひときわ大きな波がざあっと襲いかかって来て、私の体はギザギザとげとげしたサンゴや岩などとほとんど触れ合わんばかりの浅瀬を、一気に10メートル以上押し流されていった。

 しまった、手がすっぽ抜けたと思って我が手をみると、タスキモンガラをしっかり掴んでいるではないか。私もびっくりしたが、相手もかなり驚いているようにみえたね。もちろん、間近でしっかり観察した後、リリースした。

 私が言いたかったのは、そのようにしてカワハギをつかまえよということではなく、それほど強力な勢いを使わないと小さなカワハギ1頭[ひとり]穴の中から引き出すことはできない、ということだ。

 

 それでは帰神スライドショー&帰神ミュージックを。

 慶良間巡礼中の1日、近隣の無人島や座間味島などのシュノーケリング・ポイントを訪れるボート・ツアーに参加した、その時の作品で帰神スライドショーを構成した。阿嘉島の浜辺にボートで海側からアプローチした際の帰神フォトも含まれている。

 冒頭に登場する無人島の海が、<優[やさし]>という根本的なキーワードを共有しつつも、またそれ独自の質感を備えていることがおわかりいただけると思う。今回はそこまで徹底して追求する時間的余裕がなかったが、おそらく慶良間諸島を構成する1つ1つの島が、それぞれ微妙に異なる質感の海に囲まれているのだろう。

 

 クロスオーバーした帰神ミュージックは、高木美佳作『海神[わたつみ]』(2008年)。

 音楽のことは何も考えず、私と(ツアー半ば頃からようやく調子が出始めた)美佳が撮った海中帰神フォトを、私が無念無想の帰神状態にて編集し、出来上がった帰神スライドショーを『海神』とクロスオーバーしてみたら、内容とピタリ響き合うのはもちろん、まるであつらえたかのごとく時間までがそれぞれ互いに収まってしまったから、これまた「超越的」なり、と直ちに採用が決まった。

 かつて美佳が女性たちだけで西表島へ巡礼した際、舟釣りに出かけて例によって酔いそうになり、波の揺れに身を委ねていると、不思議なリズムが内面的に聴こえてきた、それを元に『海神』を作曲したそうだ。

 帰神スライドショー 撮影:高木一行&美佳

 帰神ミュージック 『海神』 作曲・編曲・アレンジ・演奏・ヴォイス 高木美佳

 

 →帰神スライドショー&帰神ミュージックのご観照方法

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