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瀬木比呂志著『絶望の裁判所』

⁂最高裁判事×印運動推進委員会⁂

一人の学者裁判官が目撃した

​司法荒廃、崩壊の黙示録!

第1章 私が裁判官をやめた理由

——自由主義者、学者まで排除する組織の構造

第2章 最高裁判事の隠された素顔

——表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち

第3章 「檻」の中の裁判官たち

——精神的「収容所群島」の囚人たち

第4章 誰のため、何のための裁判?

——あなたの権利と自由を守らない日本の裁判所

第5章 心のゆがんだ人々

——裁判官の不祥事とハラスメント、裁判官の精神構造とその病理

第6章 今こそ司法を国民、市民のものに

​——司法制度改革の悪用と法曹一元制度実現の必要性

絶望の裁判所 (講談社現代新書) 瀬木 比呂志 (著)

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 裁判所、裁判官という言葉から、あなたは、どんなイメージを思い浮かべられるのだろうか? 

 ごく普通の一般市民であれば、おそらく、少し冷たいけれども公正、中立、廉直、優秀な裁判官、杓子定規で融通はきかないとしても、誠実で、筋は通すし、出世などにはこだわらない人々を考え、また、そのような裁判官によって行われる裁判についても、同様に、やや市民感覚とずれるところはあるにしても、おおむね正しく、信頼できるものであると考えているのではないだろうか?

 しかし、残念ながら、おそらく、日本の裁判所と裁判官の実態は、そのようなものではない。前記のような国民、市民の期待に大筋応えられる裁判官は、今日ではむしろ少数派、マイノリティーとなっており、また、その割合も、少しずつ減少しつつあるからだ。そして、そのような少数派、良識派の裁判官が裁判所組織の上層部に昇ってイニシアティヴを発揮する可能性も、ほとんど全くない。近年、最高裁幹部による、裁判官の思想統制「支配、統制」が徹底し、リベラルな良識派まで排除されつつある。

 33年間裁判官を務め、学者としても著名な著者が、知られざる裁判所腐敗の実態を告発する。情実人事に権力闘争、思想統制、セクハラ……、もはや裁判所に正義を求めても、得られるものは「絶望」だけだ。

 

「BOOK」データベースより

 本書は、一人の学者裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録であり、心ある国民、市民への警告のメッセージである。 

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 普段、自分たちは裁判所というところは、検察側の内容と被告人側の内容と両方の話を聞いて、どう裁いたらよいかということを考えていると思います。しかし、刑事司法のシステムにおいてはそうではなく、検察の内容を裁判官がそのままといってよいほど採用し、被告人の話はほとんど取り上げてもらえないように感じました。この本からも同様のことが以下のように述べられています。

 

 第一に、日本の刑事司法システムで有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはまず検察官であって、裁判官はそれを審査する役割にすぎないということがある(したがって、日本の刑事裁判の無罪率はきわめて低い)。このことは、日本の刑事司法の特色として、海外の学者が必ず言及する事柄である。第二に、事件の類型にはまった情状証人の取調べが非常に多く、仕事が単調になりやすいということがある。第三に、被告人が起訴事実を認めても否認の場合と同様に証拠調べを行うなど手続きに新鮮味がないということがある。このやり方は本来合理的とはいえないのだが、日本の場合、逮捕勾留時に被疑者が弁護士と接する機会がきわめて限られているため、被告人が事実を全部認めても本当に間違いがないのかを裁判所が審査せざるをえないこと、また、刑事裁判におけるパターナリズム、父権的後見主義、お白州裁判の伝統が関係していると私は思っている。(71頁)

 

 人質司法という状態が、中世のころの制度に類似していることを国連の会議の場で指摘されても、2013年当時の日本の人権人道担当大使は日本のこうした状況を最も進んだ国家であると力説しています。まったくもって司法の状況について客観的視点を持ち合わせていないことがわかっています。

 この本にも以下のように述べられています。

 

 日本の刑事司法の一番の問題点は、それが徹底して社会防衛に重点を置いており、また、徹底して検察官主導であって、被疑者、被告人の人権には無関心であり、したがって、冤罪を生み出しやすい構造となっていることにある。

 たとえば、軽微な事件に対する必要性に乏しい長期間の勾留(被疑者の拘留。多くの場合は一〇日間だが、制度上は二〇日間まで延長が可能。否認すれば二〇日間は勾留されることになる。逮捕から勾留までの期間を加えると、さらに、最大限三日間が加算される)、それが、拘置所ではなく警察署施設内部の代用刑事施設(いわゆる代用監獄)で行われ、時間に関わりなくいつでも取調べが行われること、しかも、その間に被疑者が弁護士に面会できる時間がきわめて限られていることといった問題である。

 日本の裁判官の令状処理で一番問題があるのは勾留状である。逮捕状についてはまずまずきちんとした審査が行われていると思うが、勾留状については、勾留の必要性に関する審査がおざなりであり、在宅で捜査を行えば十分であると思われる微罪についてまで、ほとんどフリーパスで勾留が行なわれてしまう。アルバイトの学生がレジから二〇〇〇円抜き取って勾留、酔っぱらいによる電車内の小さな置き引きで勾留、五〇〇円の万引きだって勾留である。勾留されれば勤務先や学校にばれるからそれだけで致命的な不利益を被ることになる。注意してほしいのは、あなたが本当は「やって」いないのに逮捕された場合であっても、否認すれば、同様に長期間の勾留を免れないということだ。このように、身柄拘束による精神的圧迫を利用して自白を得るやり方を、「人質司法」というが、それは、日本の刑事司法の顕著な特徴であり、冤罪の温床となっている。(145頁)

 

 ほぼ常習化していることととらえていいでしょう。もし、何もしていないのにあなたが勾留されたらどうしますか?

 

 私たち一般市民は、裁判所というところは、「検察側の言い分と被告人側の言い分、双方の主張を公平に聞いて、どう裁いたらよいかを考えていると思っています。しかし、刑事司法のシステムにおいては、裁判官は検察の主張を充分に検証することなくほぼそのまま採用します。被告人の主張や弁護側の証拠・証人はほとんど取り上げてもらえないという現実があります。この本においても同様のことが述べられています。

 

 日本の刑事司法システムにおいて有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはまず検察官であって、裁判官はそれを審査する役割にすぎず、したがって無罪が稀有な例外となってしまっていることにも、大きな問題がある。

 こういう制度の下では、検察官が恣意的に起訴、不起訴の別を決めることになるために、たとえば、強姦や横領等の立証が比較的困難な事案については、検察官は、無罪になる可能性が少しでもあると考えると、立件しない。無罪は検察官のキャリアの失点、汚点になるからだ。被害者は泣き寝入りということになる。日本の警察は、民事不介入という原則を採っていて、明らかに詐欺、横領、不動産侵奪等が行われているような事案についても、民事紛争がらみとみれば一切立ち入らないが、このことも、先のような検察官の姿勢に一つの原因があるのではないかと思われる。

 また、先にも述べたとおり、刑事系に特化した裁判官には、検察寄りにバイアスがかかる傾向が否定できず、このことに、第1章で論じた談合裁判的体質が加わるため、被告人、弁護士、裁判員が見ていない場所で検察官と裁判官が話を通じ合わせているような事態も十分に考えうるのである。裁判官時代、既に退官して弁護士となっている方(名前は知っているが、それまで一面識もなかった人である)から、特定の事件についての先入観を抱かせるのが目的と思われる電話を受けたことが二回あるが、いずれも元刑事系裁判官であった。これは、もちろん、決してしてはならないことであり、こうした事柄に対する刑事系裁判官のモラルが裁判官一般に比べても低いことをうかがわせる事実である。

 刑事裁判の第一の原則は何だろうか? それは、間違いなく、「疑わしきは罰せず」、「疑わしきは被告人の利益に」、「一〇人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」ということであろう。刑事裁判の立証は、「通常人が疑いを差しはさまない程度」で足る民事裁判の場合とは異なり、「合理的な疑いを差しはさむ余地のない程度」に行われなければならないというのは、このことを意味する。

 しかし、日本の刑事裁判は、ややもすればこの原則を外れて、「疑わしきは罰す」、「疑わしきは被告人の不利益に」、「一〇人の無辜を罰すとも一人の真犯人を逃すなかれ」という方向に流れていきやすい。そこから、たとえば痴漢冤罪の横行、多発といった事態が生じてくるし、また、そのような傾向は、痴漢犯罪に限ったことでもないのである。(147頁)

 

 裁判官自らが、なにか事務仕事でも行なっているかのように刑事事件を扱っていますが、裁判が被告人の人生に大きく影響を及ぼすことは明白なわけで、人間という存在を、裁判官は軽んじている、人権を無視し、ぞんざいに扱っています。このような尊厳なき裁判官たちに、正義の番人であるはずの裁判所の業務をまかせてよいのでしょうか。

 以下も本文に述べられており、悲しむべき実態といえるでしょう。

 

 日本国憲法第七六条に輝かしい言葉で記されてるとおり、本来、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」ことが必要である。しかし、日本の裁判官の実態は、「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される」ことになっており、憲法の先の条文は、完全に愚弄され、踏みにじられている。(114・115頁)

 

 裁判官が誠実に審理を遂行しない理由として、「事件を早く終わらせたい、煩わしいことは嫌いである」という人間性が関わっていると思われます。以下、本文より。

 

 裁判官が和解に固執するのには二つの理由がある。

 一つは要するに早く事件を「処理」したい、終わらせたいからである。裁判官の事件処理については毎月統計が取られており、新受件数が既済件数を上回り、いわゆる未剤事件が増加すれば「赤字」となって「事件処理能力」が問われるし、手持ち件数も増えるからみずからの手元、訴訟運営も苦しくなってくる。また、司法制度改革に伴い二〇〇三年に成立した裁判の迅速化に関する法律の第二条によって第一審の訴訟手続きは二年以内のできるだけ短い期間内に終局させるべきものとされていて、これがガイドラインとなっていることもあり、裁判官は、ともかく早く事件を終わらせることばかりを念頭に置いて仕事をする傾向が強まっているのである。

 確かに、裁判に長い時間がかかるのは好ましいことではなく、迅速も重要である。しかし、裁判で何より重要なのは疑いもなく「適正」であり、ただ早いだけの裁判は、赤子ごとたらいの水を捨てるようなものである。にもかかわらず、日本の裁判官は、この原則を忘れがちになり、ともかく安直に早く事件を処理できて件数をかせげる和解に走ろうとする傾向が強いのである。

 もう一つの理由は、判決を書きたくないからである。これには、前記のとおり、困難な判断を行うことを回避したいという場合もあるが、それはまだいいほうで、単に、判決を書くのが面倒である、そのために訴訟記録をていねいに読み直すのも面倒である、また、判決を書けばそれがうるさい所長や裁判長によって評価され、場合により失点にもつながるので、そのような事態を避けたいなどの、より卑近な動機に基づく場合のほうが一般的である(なお、ことに高裁の評価については、客観的とは限らないという問題もあるが)。後に述べるように最近は新受件数が減少しているにもかかわらず、和解の強要、押し付け傾向が改善されないのは、こうした事情による。(136・137頁)

 

 正義ある司法機関の頂点であるべき裁判所は、検察側が提出した資料の最終チェックを行うだけの事務機関へと成り下がっているととらえることができるのではないでしょうか。

 

 瀬木比呂志さんは、現状の裁判官制度や司法キャリアシステムの問題を以下のようにまとめており、最後に著者の仮説が述べられています。

 

 司法、裁判所・裁判官制度のトータルなあり方が根本的、抜本的に変わっていかなければ、日本の裁判官は、本当の意味においてよくはならない。つまり、国民、市民のための裁判、当事者のことを第一に考える裁判にはならないし、三権分立の要として行政や立法を適切にチェックする機能も果たすことができない。(231頁)

 

 日本の司法というあなたの前のステージは、ピラミッド型ヒエラルキーのキャリアシステムと、その奴隷であり、それに毒された裁判官たちとによって、すっかり汚されてしまっている。(235頁)

 

 本書は、ある意味で、司法という狭い世界を超えた日本社会全体の問題の批判的分析をも意図した書物であり、そのために、社会学を始めとする社会科学一般の方法をも適宜援用している。私たちの社会の組織、集団等のあり方、バブル経済崩壊以降のその行き詰まり、停滞には、本書で私が種々の側面から分析したような問題に起因する部分が大きいのではないだろうか? 日本の裁判官組織は、法律専門家エリートの閉ざされた官僚集団であるために、そのような問題が集約、凝集されて現れ、社会病理学、精神病理学的な様相を呈しているのではないだろうか? それが、私の仮説である。(238頁)

 

 現在の司法の実態を知れば、何をすべきか自ずから明らかになります。

 裁判所の腐敗にストップをかけるのは、私たち市民が結集して「声」をあげることから始まるのではないでしょうか?

 まずは曇りなき目で、本書を一読されることを強くお勧めします。

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