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裁判官が下した非常識判決

⁂最高裁判事×印運動推進委員会⁂

 一般常識、市民感覚から大きくかけはなれた裁判官が下す判決には、あり得ないような非常識なものがたくさんあります。 ここでは、実際にあった数々の「非常識判決」を紹介します。 私たち一般市民の常識ではとても考えられない、狂気とも言える判決がなぜこれほど生み出されるか?

 裁判官は、1人の人間として見れば真面目で熱心な方が多くいらっしゃるのかもしれません。しかし、プロ(裁判官)と素人(市民)の「常識」が著しくかけ離れているとしたら・・・「非常識」な判決が繰り返されるのも当然ではないでしょうか。

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確信は持てないが、疑わしいので有罪!

 大森勧銀事件 東京都(無期懲役後に逆転無罪判決)

 強盗殺人事件の犯人として起訴された近田才典さんは、一審において無期懲役の有罪判決。判決後の説論(判決の宣告後、被告人に対し訓戒を与えること)において、 以下の内容を裁判長に申し渡されました。

 以上の通り、当裁判所は有罪と認定したけれども、君は、ずっと無罪を主張してき た・・・もし、やっていなければ仕方ありませんが、もしやっているのであれば反省してください。

 東京地裁、一審・無期懲役判決 裁判長:坂本武志、裁判官:安藤正博・平谷正弘

 日本国民救援会・裁判員制度検証プロジェクトチーム編 ,

『裁判員読本 冤罪判決事例大全』,2012, p38.

 刑事裁判の鉄則は「疑わしきは罰せず」であり、検察官の主張が証拠で証明できていると確信が持てない限り、無罪でなければなりません。 この判決では、裁判長自身が事実関係に確信を持っていないにも関わらず、法によって定められた裁判の原理原則すら無視し、「疑わしきは罰する」の精神で有罪を宣告しているのです。

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取り調べ官がやっていないと言っているので、 自白の強要は認めない!

-布川事件 茨城県(無期懲役確定後、44年後に再審無罪)

 えん罪事件において多く行なわれるのが、警察官が「代用監獄」と言われる警察の留置所に容疑者を長期間勾留し、自白を強要するというものです。 この布川事件では、桜井昌二さんと杉山卓男さんが別件で逮捕されたあげく、不当に長期拘留し、自白を強要されました。

 桜井さんに対する取り調べにおいて警察は架空の目撃者を作り上げ、またアリバイの主張を裏付けもなく「相手は否定している」と嘘を告げるなどして絶望させ、嘘の自白をさせました。 取り調べにおいて、自白の誘導と強要があったという被告人の主張に対し、裁判長 が下した判断が以下の判決文の内容です。

[公判での取調官の証言]によれば、捜査官においてそのような取り調べをした事実はみとめられないので、これと対比して被告人両名の右供述部分は信用することができない。

水戸地裁土浦支部、一審・幹懲役判決 裁判長:藤岡学、裁判官:玉井武夫・山口忍

日本国民救援会・裁判員制度検証プロジェクトチーム編 ,

『裁判員読本 冤罪判決事例大全』,2012, p40.

 密室で行なわれた取り調べの事実関係を追究する姿勢を一切みせず、取調べ官の言い分のみを機械的に信じる裁判官の良識を疑う内容です。このような、裁判官が警察のいいなりになるがままといった判決の事例も驚くほど多く存在しています。

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不良少年はえん罪でも死刑 

-財田川事件

 

 財田川事件は、香川県の琴平の奥の山間の財田川(現・三豊市)で、一人暮らしの初老の男性が殺され、現金が奪われた事件で、地元の19歳の少年に嫌疑がかかりました。

 事件から約一ヶ月後、警察は少年を別件で逮捕。取り調べの結果、先の強盗殺人を自白したとされました。裁判では、少年は自白の強要があったことを訴えますが、結果は、一審から最高裁まですべて死刑判決でした。終戦直後の時期には、強盗殺人など金銭目的の殺人は、一人殺害でも死刑になることが少なからずあったのです。

 この事件でも、死刑判決を受けた少年のえん罪が晴れたのは事件から34年後のことでした(その間、少年は死刑囚として監獄生活を強いられたのです)。

 このケースでは、自白の強要に加えて、物証の評価の誤りもえん罪の原因になっていました。少年の家から押収されたズボンには血痕が付着していましたが、後になって少年の兄のズボンだった疑いが出てきたのです。

 少年は、地元では不良少年として有名でしたが、他面、土工や炭焼きなどをして稼いだ金を家族に入れていたそうです。

 不良少年に対する偏見と裁判官たちのずさんな審理により、34年もの人生を奪われた少年。しかも死刑囚として収監されている人のストレスは、想像を絶するものです。

 こうした、あってはならない間違いの責任を、裁判官は法的に問われません。その事実だけでも、一般市民の常識からはかけ離れています。

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放浪青年はえん罪でも死刑 

-島田事件

 

 島田事件は、静岡県島田市内の幼稚園から女児が連れ去られ、近くの雑木林で扼殺死体となって見つかった事件です。若い男と一緒に歩いている被害児童が目撃されていました。 

 警察は、島田氏の出身のA青年を疑い、タオルなどの窃盗の容疑で別件逮捕して取り調べました。A青年はその頃、横浜、平塚、三島、沼津、静岡、岐阜などを放浪していましたが、警察は、事件当時は島田市を徘徊していたと断定。取り調べの結果、女児誘拐殺人を自白したとされてしまいます。裁判で、A青年は自白の強要を訴えましたが、結果は、一審から最高裁まですべて死刑判決でした。

 この事件でA青年のえん罪が晴れたのも、逮捕から34年後のことでした。このえん罪には、自白の強要に加えて、法医学鑑定にも原因がありました。推定凶器と女児の遺体の損傷状況が符合しないことが後に明らかになったのです。

 A青年は、事件が起きた当時25歳。各地で砂利運搬、掘削、市の水道工事などの作業員として働いていました。実家は下駄を商っていましたが、もともと近所付き合いも少なく、当時、両親はすでに死亡し、兄夫婦が継いでいたため、ひとり流浪の旅に出ていることが多かったそうです。

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「ねつ造証拠で死刑」の無法 

-松山事件

 

 死刑えん罪でも最もひどいのが、松山事件です。ねつ造された証拠で死刑を言い渡し、確定させていたのです。

 司法権力が、いかにして無実の市民を死に追いやろうとしたかが見て取れます。

 一連の出来事は、宮城県の仙台近郊の松山町(現・大崎市)で農家が全焼したのに端を発します。焼け跡から夫婦と子供二人が焼死体で見つかりましたが、焼死体の頭が割られていて、殺人事件であることが判明しました(一家4人皆殺し事件)。警察は、事件直後に東京に働きに出たS青年を、高飛びしようとしたと見て別件で逮捕します。取り調べの結果、S青年は一家皆殺しを自白したとされました。

 裁判では、S青年は自白が強要されたことを訴えますが、結果は、一審から最高裁まですべて死刑判決。 

 このえん罪の原因には、自白の無理強いだけでなく、すでに述べたように証拠のねつ造がありました。裁判では、S青年の家から押収した布団カバーの血痕という客観的証拠が存在しました。証拠物として法廷に提出された布団カバーには、実際に80数ヶ所にわたって細かい血痕が付着していました。そして、鑑定の結果、これは人血であり被害者の血液型と一致するとされていました(返り血を浴びたS青年の頭髪から付着したものとみなされた)。

 最終的にえん罪を認めた再審の判決では、「当初、血痕は付着していなかった蓋然性が高い。本人以外の者がつけた可能性がある」との判断が示されています。

 S青年は、事件が起きた時は24歳。製材工として地元の製材所で働いた後、当時は家業の製材業を手伝っていました。日頃よく飲み歩いてはいましたが、兄夫婦と同居していて、製材業手伝いでそれ相応の定期収入も得ていました。事件後に友人2人と住み込みで働く目的で上京。そのため、逮捕された場所も、住み込み先の精肉店でした。

 警察は、それを高飛びしようとしたと見て別件逮捕したわけですが、その逮捕の理由となった別件とは、S青年が夏祭りの夜に友達と喧嘩したという傷害の容疑でした。

 S青年のえん罪が晴れたのは、事件から28年後のことでした。しかしその時には、すでに実家の製材業は廃業、所有する地所も人手に渡っていました。兄夫婦をはじめ、兄弟はすべて他所に移り住み、嫁いでいた姉はとうの昔に離婚を余儀なくされていたのです。

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えん罪を主張するものには厳罰

 日本の裁判では、犯罪事実を争った場合は、認めた場合よりも刑が重くされます。事実(犯罪行為)自体は同じだとしても、被告人が裁判でそれを認めたかどうかで、量刑を差別化し、争った場合は、刑を重くするのです。

 ここで、事実を争った場合とは、いかなる事態を意味するかと言えば、無罪を主張することであり、当人がえん罪を訴える場合に他なりません。すなわち、えん罪を主張した場合には刑を重くするのが、日本の司法なのです。

 それが端的にわかる例を一つ取り上げます。

 同じ年に一審判決が言い渡された2つの両親殺し事件があります。市原・両親殺害事件と川崎・両親殺害事件です。

 前者は、県内有数の進学校を卒業後、家業を手伝いながら演劇活動などをしていた22歳の若者が、自分が付き合っていた女性(風俗関係の仕事をしていた)のことを親から悪し様に言われ、瞬間的に逆上、我を忘れて、その場(居間)にあったナイフで両親を刺殺したケース。

 後者は、都内の私立進学校を卒業後、自宅で浪人生活を送っていた20歳の若者が、親の金を盗んで隠れて飲酒しているところを見つかって叱責され、その場は説教されて終わったものの、憤懣を抑えられず、自室でさらに飲酒しながら両親が就寝するのを待ち、真夜中に金属バットを持ち出してふた親を撲殺したケースです。この事件は『金属バット事件』として世に喧伝されました。

 この2つの事件はいずれも1984年に第一審判決が言い渡されましたが、前者は死刑(千葉地裁昭和59年3月15日判決)、後者は懲役13年(横浜地裁川崎支部昭和59年4月25日判決)でした。

 似たような殺人事件で刑罰にそこまでの差が出た理由は、前者の事件の被告人はえん罪を主張して争っていましたが、後者の事件の被告人は、はじめから罪を認めて争わなかったからなのです。

 結局、この2つの事件では、それぞれの刑が確定しましたが(前者は控訴、上告したが死刑は変わらず、現在、死刑囚として執行待ち。後者は一審で確定、20年ほど前に出所済み)、えん罪を主張したかしなかったかで、それほどまでに計の違いをつけるのが日本の司法権力なのです。

 

財田川事件、島田事件、松山事件

出典『司法権力の内幕』森炎・著 ちくま新書・刊

 

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