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最高裁による人事統制

⁂最高裁判事×印運動推進委員会⁂

 私たちがなぜ、最高裁判事全員を罷免することを推奨しているのか、その根本理由として、全国の裁判所、裁判官を統括している「最高裁判所」による独裁体勢にストップをかけるためであることを、本ページで解説いたします。

「最高裁判所事務総局」は、全国の裁判所の人事、各裁判官の勤務地、給与などを決定する権利を持つ最高裁に置かれた部署で、実質的に裁判所はこの「最高裁事務総局」に支配されていると言われています。

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●人として信用ならない裁判官

 

 皆さんは、最高裁判事という職業にどのようなイメージをお持ちでしょうか?

 選ばれし者のみが就くことを許された「裁判官の頂点」。それが、人々が最高裁判事に対して抱く、偽らざる印象でしょう。

 そして、そのような重責を担うのが、人格識見に優れ、専門職としての高度な能力を有する人物であってほしい、というのは私たち国民の切なる願いです。

 

 しかし、残念ながら実態はそれとは大きくかけ離れています。

 官僚組織で上に上り詰めるのは、上層部に気に入られて息がかかった人物と相場が決まっているが、それは司法の世界においても例外ではないのです。

 いかに能力、人格ともにすぐれた人物であろうと、いわゆる「良識派」と呼ばれる人々にチャンスが与えられることはありません。

 むしろ、上層部に媚を売り、巧みにすり寄る人物ばかりが報われてしまうのです。

 

 実例を1つご紹介します。

 最高裁判事における「学者枠」のカテゴリーに、とある女性学者が任命されたことがありました。しかし、各界からの評価はあまり芳しいものではなく、批判や戸惑いの声が多数寄せられました。

 というのも、その女性学者には「学者」としてのキャリアが乏しく、最高裁判事に指名されるだけの実績も皆無に等しかったからです。

 

 実は、そのような無名の「学者」を判事の椅子に据えたのにはわけがあります。もしも、有力で実績の申し分ない「学者」が最高裁判事になった場合、他の判事たちの意見を揺るがしてしまうほどの、強大な影響力を持つことになります。そのことは、裁判所当局にとって大きな脅威を意味するのです。

 そもそも、最高裁判事に「学者枠」を設けているのは、裁判に客観性や公平性を持たせるためではなかったのでしょうか?

 そのような「最重要人事」すら自分都合でうやむやにしてしまうとすれば、もはや司法に自浄作用などまったく期待できないということになります。

 

 かくも軽佻浮薄な裁判官に己の命運を託すほかない私たちは、つくづく不幸であると言わざるを得ません。

 

●優れた人材が育たないキャリアシステム

 

『絶望の裁判所』の著者、瀬木比呂志(せぎひろし)氏は、30年以上司法の世界でキャリアを積み、最高裁の勤務経験も有しています。

 氏は、自らの経験から、司法の世界を精神的な「収容所」になぞらえています。

 

 日本の裁判所の一大特徴は、「事務総局中心体制」の一語に尽きるでしょう。

 最高裁判所事務総局を頂点とする、「上命下服」「上意下達」のピラミッド型ヒエラルキーは、目に見えぬ「檻」となって裁判官を閉じ込めます。

 このような体質は、「支配と追随」の二面性を強化し、「上にはきわめて弱く、下にはきわめて強い」人物ばかりが、優遇される結果を招いてしまうのです。

 

 たとえば、事務総局の意向に沿わない「判決や論文」を書いた者は、いかに有能であろうとも、見せしめのための冷や飯食いに甘んじることになります。

 かくて、有能な人物が左遷され、茶坊主ばかりが幅を利かせる不条理がまかり通ってしまうのです。

 また、ある大地裁の所長などは、裁判官や職員の前で、「高裁の意見はちゃんと聴いたのか?まず上級庁の意見を聴きなさい。」「それは本当に事務総局の考え方と同じなのか?もしかしたら違うのではないか?」と問いただすのが常であったといいます。

 

 「出世競争」と言えば、まだ聞こえがよいのですが、実態は事務総局のための「異分子排除システム」に過ぎません。「事務総局中心体制」による恐怖政治は、司法の世界にどっぷりと根を下ろしているのです。

 

●自分都合で裁判を進める裁判官

 

 「三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方を常時監察し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティを助ける。」

 言うまでもありませんが、それこそが司法の本来の姿。

 しかし、どうやらそれは理想論に過ぎなかったようです。

 

「米軍基地に関する騒音差止請求(1993年)」について、最高裁は主張自体失当として、棄却しました。憲法で保障された基本的人権は、日米安保条約に対しても有意であることは、憲法学の通説です。国には、国民の基本的人権を守るべき義務が存在するはずですが、それをあっさりと踏みにじってしまったのです。

 この一事をとってみても、裁判官一般の考え方が権力寄りにバイアスがかかっていているのは間違いありません。

 

 また、近年は裁判迅速化の要請を背景に、「和解」礼賛の考え方が主流になりつつあります。

 しかし、その弊害として、効率よく事件を「落とす」ことだけを至上目的とする事なかれ主義の事件処理が目立つようになりました。

 その背景には、「事件を早く処理したい」「判決文を書きたくない」といった裁判官の思惑が渦巻いています。

 「当事者の意向に沿わない和解は絶対に行なってはならない」ことを、弁護士倫理の基本中の基本に掲げているアメリカとは、まるで対極です。

 

 もう1つ、刑事司法のあり方についての大きな問題を提起したいと思います。

 日本の刑事裁判の有罪率は99%と言われています。しかし、これは裏を返せば、冤罪の発生率も高いということを意味します。

 検挙された人々が、すべてがすべて有罪でないことくらいは、私たち法の「素人」でも容易に察しが付くはずです。

 

 そもそも、刑事裁判の目的は、「検察官の主張が本当に正しいかどうかをチェックすること」にあります。

 しかし、残念ながら現状では「犯罪を犯した悪い奴を裁くこと」にすり替えられているのです。

 

 こうした「犯罪者ありきの捜査方針」の怖ろしさを伝える実例があります。

 2001年、朝日新聞によって愛媛県警の「被疑者取調要領(ひぎしゃとりしらべようりょう)」が暴露されました。

 その中には、「調べ室に入ったら、自供するまで外に出すな。」、「朝から晩まで、取調を継続せよ。」、「長期間にわたる拘留」など、目を疑わんばかりのおどろおどろしい文字が並んでいます。

 こうした実例を見るに付け、果たしてこれが「民主国家の司法」としての正しいあり方なのだろうか、と首をかしげざるを得ません。

 

「疑わしきは罰せず」「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という刑事裁判の大原則は、もはや形骸化しているのではないでしょうか。

 現在、大手を振ってまかり通っているのは、「疑わしきは罰す」「10人の無辜(むこ)を罰すとも1人の真犯人を逃すなかれ」という考え方です。

 

 弁護士の生田暉雄氏(元裁判官)は、信じられないような司法の実態について、動画で紹介しています。

 あるとき、氏は先輩の裁判官から、「無罪や市民よりの判決ばかり出していると、出世に響くぞ」と言われたそうです。

 つまり、裁判官にとって、検察の方針に逆らってまで「無罪」を出すのは、彼らの人生を左右しかねないほどの、大いなるリスクというわけです。なるほど、これでは冤罪が無くなるはずもありません。

 

 2007年に、「それでもボクはやってない」という痴漢冤罪を題材とする映画がありましたが、あれは他人事でも何でも無く、いつ何時自分の身に降りかかってきてもおかしくない「今そこにある危機」として認識するべきです。

 

 裁判とは、いったい誰のために存在するのでしょうか?

 そんなことすら忘れてしまった裁判官に、公正な裁きを期待するだけ無駄なのです。

 

●不祥事とハラスメントは、日常茶飯事

 

 裁判官の不祥事が後を絶ちません。

 

 むろん、不祥事やハラスメントの発生が、ある特定の職業のみに限ったことではないのは承知の上ですが、あまりの数の多さが気になります。現職の裁判官が現在3000名ほどであることを考え合わせれば、その発生比率の高さに誰もが言葉を失うことでしょう。

 

 いくつか、近年の裁判官の不祥事について例を挙げてみたいと思います。

 

 検事総長の名前をかたって総理に電話をかけ、ロッキード事件に関する言質を取ろうとした事件。

 日本共産党書記長の身分帳を刑務所で閲覧、写真撮影した事件。

その他、性犯罪、収賄事件など実に多彩です。起訴されていないものまで数え合わせれば、相当な件数に上ることでしょう。

 

 なぜ、裁判官という職業のみに、そうした問題行動が集中するのでしょうか?

 瀬木比呂志氏は、裁判所の持つ「収容所」的な性格こそが、裁判官の精神を追い詰める元凶であると指摘します。

 そのことの裏付けとして、裁判官の自殺者の多さが挙げられます。司法の世界において、精神衛生面のケアが後回しにされてきたことのつけが、思わぬところで噴き出してきた形です。

 

 裁判官という職業は、人の運命を左右するという性質上、精神にのしかかる負担の重さは想像を絶します。本来であれば、それなりに人生経験を重ね、辛酸を味わってきた人物でなければ、務まるものではありません。

 受験勉強に追い立てられてきた優等生上がりの坊ちゃん、嬢ちゃん育ちの裁判官には、いささか荷が勝ちすぎています。

 高邁な気持ちを抱いて司法の世界を志したはずの「普通」の若者が、少しずつ少しずつ「人間らしい心」を失って蝕まれていく。

 司法の体質が変わらない限り、そうした「病める裁判官」という負の連鎖をとめることは、もはや不可能なのかもしれません。

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